プロ野球 伝説の魔球を投げた投手たち
最近のプロ野球では、ソフトバンクホークスの千賀投手のフォークや、オリックスバッファローズの山岡泰輔投手のスライダー、同じく山本由伸投手なんかもすべての球が一級品ですね。これからも魔球を操って、球界のレジェンドまで昇り詰めてほしいと思います。
さて、かつてプロ野球界で、魔球を操った伝説のピッチャーを 紹介したいと思います。私の勝手にランキングです。
1979年の江夏の21球を見ております。もう晩年でしたが『20世紀最高の投手』だと思っております。江夏さんは別格扱いでお願いします。
剛速球 ~伝説の魔球~
直球は、投球の基本になります。ストレートが走ってないと、どんなキレのある変化球をもってしてもプロのバッターには簡単に餌食にされてしまいます。球速が速いピッチャーは大谷投手や伊良部投手、藤川投手などが有名です。でもかつて、この剛速球で度肝を抜かされた投手を紹介します。
山口高志 阪急ブレーブス (1975 - 1982)
マウンド上では大きく見えましたが、実際の身長は169cmでした。いわゆる剛速球を投げました。ほとんどストレートしか投げません。体全体を使って投げるすごい躍動感あるピッチングでした。馬力で投じた真ん中高めのストレートに、ほとんどのバッターはのけぞってました。恐怖の球筋だったんでしょう。あんな剛速球を投げるピッチャーは後にも先にも山口投手しかいません。
当時、パ・リーグのTV中継は、ほとんどされてない時代。「すんごいピッチャーがパ・リーグにはいるんだな」と、阪急のキャップを買ってしまいました。
のちに、阪神の投手コーチになり、藤川投手や福原投手を育てています。
プロ通算成績は50勝43敗44セーブ 防御率3.18 奪三振600
快速球 ~伝説の魔球~
江川卓 読売ジャイアンツ (1979 - 1987)
合理的なフォームで、淡々と投げていました。球の回転がきれいだったんでしょう。バックスピンがかかりホップする感じの快速球でした。バッターが空振りするとき、投じた球とバットが10センチ離れてるな、なんて場面もありました。それもバットが、ボールの下で空を切ってます。あまり見られない光景でした。
作新学院では、ノーヒットノーラン9回、完全試合2回、20完封、36イニング連続無安打無失点、防御率0.41、県予選合計被安打2での夏の甲子園出場など、まさに“怪物”の異名通リの成績を残しています。ジャイアンツのエースとして活躍はもう残り香。1984年、オールスターで8者連続三振を取っています。その日はコントロールが良く、「今日は打たれる感じはしないな」とは思いました。でも、その頃はもうびっくりする快速球ではありませんでした。
プロ通算成績は135勝72敗3セーブ 防御率3.02 奪三振1366
カーブ ~伝説の魔球~
今中慎二 中日ドラゴンズ (1989 - 2001)
カーブといえば、ライオンズやホークスで活躍した工藤公康投手、ジャイアンツの桑田投手、オリックスの星野投手あたりが有名ですね。でも、私の記憶の中でのナンバー1は今も、今中慎二投手です。よく、2階から落ちてくるとか、投げた瞬間は暴投だと思った球が捕球の時はど真ん中、なんて表現されました。バッターが、2ストライクと追い込まれた場面で、あの緩いカーブを呆然と見逃す光景を何度も見ました。負けが少ない大崩れしないピッチャーでした。
プロ通算成績は91勝69敗5セーブ 防御率3.15 奪三振1129
スライダー ~伝説の魔球~
伊藤 智仁 ヤクルトスワローズ (1993 - 2003)
ルーキーイヤーの1993年、高速スライダーを武器に新星のごとく現れます。“ファミコンのスライダー”それが、伊藤智仁の投球を初めて見た時の率直な感想です。 高速で横にスライドするボール。伊藤投手の使っているボールだけ違うんじゃないかな、とも思いました。
「ノムラスコープ」を使って テレ朝で解説し、好評を得て、1990年ヤクルトの監督になった野村監督。高説の通リ3年目の1992年にセ・リーグを制し、スワローズの盤石を図ります。ただしその過程で、岡林投手や伊藤投手の酷使、登板過多が 私の目から見ても明らかでした。ただ、ノムさんのすごいところは、 後になってこの事を、本人に謝罪しているところです。
プロ通算成績は37勝27敗25セーブ 防御率2.31 奪三振548
シンカー ~伝説の魔球~
潮崎哲也 西武ライオンズ (1990 - 2004)
サイドスローから投げるストレートは140キロ後半、シンカーは110キロ代と緩急が投球のキモでした。シンカーは遅い球なので、待たれるとつらい。だから、初見に近いセ・リーグ相手の日本シリーズでよく活躍した印象です。92年だったか、スワーローズの主軸杉浦選手にも、とんでもないシンカー投げてました。
シュート気味に右に曲がりながら浮き上がって落ちる、シンカー使いの名手でした。
プロ入りから7年、連続して40試合以上投げてます。そのうち防御率1点台が3回、2点台が3回です。
プロ通算成績は82勝55敗55セーブ 防御率3.16 奪三振967
フォーク ~伝説の魔球~
遠藤一彦 横浜大洋ホエールズ (1978 - 1992)
弱小ホエールズの大エース。1982年から6年連続二桁勝利をあげています。フォークボールといえば大魔神佐々木投手、野茂投手を普通はイメージします。でも、私の記憶の中のフォークボール使いは遠藤投手です。
何がすごかったか。いつ来るか分からなかったんです。遠藤投手は昨今のようにフォークボールを多投していません 。投球の組み立ては、基本外角低めストレートです。絶妙のコントロールで、簡単にストライクが取れます。 ピンチの場面でよく思いました。「遠藤フォーク投げろ」
いやいや投げません。
遠藤投手のフォークで、あまりワンバウンドを見たことがありません。 変化が大きすぎるフォークボールも問題なんです。ワイルドピッチも問題ですが、日本式の見極めの野球をやられると、観客は非常にダレた試合になった印象が残ります。「ボール、ボール、ボール」 。
極論ですが、弱小球団にいても、打者は打点しか影響を受けません。打率もホームラン数も影響を受けません。しかし投手は、勝ち星に直結します。 生涯通算成績の勝ち負けほぼ同数は賞賛に値します。
プロ通算成績は134勝128敗58セーブ 防御率3.49 奪三振1654
シュート ~伝説の魔球~
東尾修 ライオンズ (1969 - 1988)
通算165与死球は日本記録です。でも東尾投手は歴代10本の指に入る名投手だと思ってます。1969年、稲尾さん、中西さん、豊田さんなど野武士軍団で有名な西鉄に入りますが、ほどなく1972年には西鉄は身売りします。1979年に西武になるまでの1973年から1978年は太平洋クラブ、クラウンライターなど、まさに冬の時代でした。
1972年の西鉄最終年の西鉄の成績は47勝80敗3引き分け。うち東尾投手が18勝25敗、のちに巨人に移籍した加藤初投手が17勝16敗です。2人で35勝です。その数年後、野球少年になった私は、子どもながら、「25敗って何なの?そんな負けるピッチャーがよく使われるなー」と思っておりました。東尾さんって、苗字が変わっていたのでよく覚えています。
1972年の東尾さんの成績をさらに言えば、失点152、自責点126ですから、守備も荒れていたのかもしれませんね。
西武ライオンズになってからは、話題性もあり、関東にフランチャイズが移ったこともあり、TVでたまに見れるようになります。1982年から監督が広岡さんになり、続く森監督と、球団は常勝軍団に成長しました。
東尾投手は、基本スライダー投手です。スライダーって言っても、投げる角度、スピード、曲がりを調整して10種類以上のスライダーを駆使していた印象です。そして、そのスライダーを踏み込ませない為に、時折投げるシュートが圧巻でした。
1986年、近鉄のデービスの肘にデッドボールをあて、乱闘になりました。頭へのデッドボールは論外ですが、内角に投げられるピッチャーじゃないと勝てない、っていうのは投手、捕手経験者なら誰もが言うところです。
「ケンカ投法」と言われましたが、この頃の東尾投手、ストレートで130キロ代、変化球だと120キロ代です。落合選手の頭にデッドボールを当てたことがありました。報復にピッチャーライナーを打たれています。
ピッチャーからバッターを見たとき、普通、ストライクゾーンは長方形に見えます。でも本当のストライクゾーンは、ホームベース上の五角形の立体になります。その立体に掠るように投球していた旨、発言してます。投球を上から俯瞰していたんですね。
内角外角に投球を出し入れします。最近では、ほとんど見ることができなくなった投球術です。
プロ通算成績は251勝247敗23セーブ 防御率3.50 奪三振1684
魔球たらしめる投球術
以上、「魔球を投げた投手たち」勝手にランキングでした。
こうして見てくると、魔球を投げた投手は、実はもう一つ際立った球種なり投球術だったりを持ち合わせていた事が分かると思います。
魔球だけでは、厳しいプロの世界では通用しません。直球を際立たせる為の変化球。変化球を際立たせる為の変化球や投球術。ウィニングショットまでのストーリーが魔球を魔球たらしめます。ぜひ、配球を楽しんで下さい。
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